群馬で文化活動やらに関わる多くの人にとってそうだったように、
私にとっても、茂木さんはヒーローだったし、あこがれの人でした。

地方の小さな映画祭に、
著名な映画監督や、人気の俳優が集まってくる様を見て、
「高崎でもそんなことができるんだ」ってシンプルに注目しましたし、
茂木さんや高崎映画祭は、我々にとっての窓だったと思います。

「だから、その気になれば、私たちにだって○○ができる」
そう思わせてくれる道しるべでした。

私が最後に茂木さんにお会いしたのは、今年六月半ばでした。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を観た後、主演女優のサイン会に並んでいた際、
「六月の電話」公演の置きちらしをお願いしました。
「なかむらです」とご挨拶すると、
「来てるなあって思いましたよ」って。「お元気そうですね」と続けると、
「うん。もう少しがんばれると思うんだ」とおっしゃってました。

文化活動がらみの会議で委員をご一緒しても、
積極的にこちらから話しかけるのは、遠慮していました。
なんとなく、
私は新参者だし、
たくさんのファンほど茂木さんのことはよく知らないし、
映画通じゃないし。
もうひとつは、
自分にはまだ準備ができていない。
私に準備ができた時、
自然と茂木さんとなにかをご一緒する機会があるのではないか、
と思っていたところもありました。
その準備自体、具体的になんなのかが見えていない段階で、
おいそれと茂木さんに近づくのは失礼だと思っていた節があります。

たぶん、茂木さんには、
私のような隠れファンもいっぱいいただろうと思います。

とある月刊誌の編集長をやっていた時、
小栗康平監督の「埋もれ木」の特集を組んだ際、
市民立の映画館として「深谷チネ・フェリーチェ」を取材しました。
媒体の編集する時って、
まんまじゃなく、変化球を使いたくなる時があります。
「なんでシネマテークじゃなくて、深谷なんだ」って
茂木さんが怒ってたって、風の噂で聞きました。

訃報を聞いた後、
知人に連れていってもらった、茂木さんの行きつけのお店で、
茂木さんは唐十郎のファンだったと聞きました。
その時、はじめて心の中にぽっかり穴が空きました。

「なんだよ。電気工事会社の倉庫でやった、とろんぷの屋台くずし、観てほしかったなあ」

私の唯一の自慢といえば、
N社の販促ツール企画コンペの席上、
茂木さんの前でプレゼンをしたことがある、ということです。
やっぱりあの時も黒づくめの洋服に、毛糸の帽子をかぶっていて、
「さすが茂木さん」と思いました。

きっと今でも茂木さんは、
ぎらぎらして、ちょっと危ない香りがして、
大勢の人の気をひいているんでしょうね。
ぐんまで若い人たちがなにかをやる時は、
みんな茂木さんとの距離をはかりながら、たしかめながら、
はじめたり、続けたり、挫折したりするんだろうと思います。
茂木さん。やっぱ、すごい。

シネマテークたかさき