秋のよき日、三年ぶりに上三原田の歌舞伎舞台を訪ねました。
星野敬太郎さんから、あらためて舞台についてお話を聞くためです。
小屋掛けもせず、戸もしまっている歌舞伎舞台の
なんと小さく、狭く見えること。
なおのこと、本番の「華やかさ」のすごさを感じます。

中に入れてもらって、舞台奥から写真を撮りました。
右側が観客側にあたります。

奈落へ。
ここで20~30人の男衆が回り舞台を回したり、小舞台の上げ下げをします。
ぐるりと囲んだ石積みがすごいです。
この上に、五間×四間の舞台を擁する芝居小屋がのっかってるんです。
上三原田歌舞伎舞台は、文政2年、天竜寺の境内に建てられた後、明治15年、現在の地に移築されます。
この石積みは、江戸時代の石積みを明治時代に復元したものです。

次は天井裏へ。
上三原田の芝居小屋のすごさは
奈落からせり上がる舞台と回り舞台だけでなく
天井裏からも小舞台が下りてきます。
この舞台に役者が乗って、下におりるんです。
bonmedia、四年前に天井から下りてくる舞台見て
ぶっ飛びました。
現代の公共ホールは、むしろ天井に道具類をとばせなくて不評なのに、こんな舞台、見たことないです。

基本的に、これらの「縄」で上げ下げするわけです。
ひとつの滑車を2~3人で操作するそうです。力がいります。

この歌舞伎舞台を作ったのは永井長治郎という水車大工です。ガンドウ機構、遠見機構、回転機構、せり機構を作った張本人。屋根裏の木の組み方がとてもむずかしかったため、明治期の移築の時も、解体せずに、このまま運んだということです。

星野さんによれば、文政2年に建てられた時、材木は養蚕関係の建物から再利用されたのではないかということでした。なぜなら、こんな風に、不必要な溝があったりするから。
…ってことは、この柱は1819年に建造された時の木ということです。

こちらは一階 舞台・観客側の天井。演目によって、この天井もはずして、雪を降らしたりするそうです。あれもこれもできるような作りになってるんです。
この「白」はペンキではありません。そりゃそうですよね、江戸時代にはペンキ無いですもんね。
塗りなおす時は、今でも貝殻をつぶした白い塗料を塗るそうです。

村芝居の舞台は、舞台だけ天井があって、観客席は露天。本番の際に観客席の上に小屋掛けします。
これは観客席、いちばんうしろからの写真。
この太い木に、杉の「跳ね木」をくくりつけて観客席の天井を作っていきます。
小屋掛けまで含めると、のべ1000人の人手がいるそうです。
小屋掛けの手順はbeeさんのサイトに詳しく載ってます。
http://www.wind.ne.jp/bee/b2007.htm

とにかく、こんな小さな小屋が、あんな華やかな劇場になるんだから、すごいです。
星野さんいわく、この地域は養蚕が盛んで、現金収入があったこと、養蚕を続けるためのいろいろな技術があったこと、大工をはじめ、屋根や左官の職人が多かったことが、芝居小屋を作り、存続することを可能にしたのではないか、とのことでした。

今年は観客席の小屋掛けはありません。でも来年は茅葺屋根の葺き替えで、上演がありませんから、次、上三原田の舞台が見られるのは、再来年になります。
だから、今年、見ておいたほうがいいよ。

この地域が「芝居のまち」であることを証明するもうひとつの舞台があります。これは閉鎖された当時の村立保育園。壊すことをせず・・・

中は、稽古場や道具置き場になっていました。
本番どおりのスケールサイズで稽古ができます。
あっぱれ!上三原田!!

<以下は今日の星野さんの話から知ったこと・できるだけ基礎資料にあたって、確認をとりたいと思います>
・永井長治郎 お伊勢参り好き 伊勢の帰りに江戸に寄って化政時代の江戸文化を吸収した 大阪で技術習得っていうのは聞いたことないよ。

・ここは中山間地 養蚕と米 いちばん盛んなのは明治大正昭和 繭はすぐ現金化 自分たちも楽しみたいけど、親戚よんだり、おもてなしが好きな地域なので、今まで一度も入場料をとったことがない

・このあたりには舞台いっぱいあった 残ったのはここだけ 機構が珍しいから

・気質も職人気質
今後、会社勤めの人が多くなると、芝居小屋も組織も維持していくのに工夫が必要と思う

・天竜寺(天台宗)の境内に建っていたから、最初は檀家が建てたんじゃないか
地域の中では、檀家が半分  地域として活用するために、ここへ移築したんだと思う
檀家のものではなく、地域で保存していこうとなったと聞いている
もともとここも神社庁の敷地
お寺の境内に奈落は残っている 埋まってるだけ 掘るのはお金がかかると思う

・地方巡業が来ると、男衆は舞台裏入って、女性はおもてなしをした だから地域の人が、ゆっくり歌舞伎を見るっていうのは無かったらしい

・舞台設定は養蚕の道具が多い

・金の無い人は労働力出せ、縄あんでこい、給料もらってる人はお金出せ
自治体の金はもらわなかった
昭和37年の時、はじめて企業協賛もらった

・私が知っている時代は、太夫、三味線はいたけど、役者はいなかった

・地域として蓄えて、だから次の公演までに、五年、十年かかった。(小屋掛けまですると約2,000万円くらいかかると思う)

・泊まり飲み食いは、おもてなしで済む
昭和37年の集めた金額、どこかに資料があったかも 地域で足りないから協賛金集めた

・公演経過
明治 4年、6年、8年、11年、14年、15年、17年、20年、22年、25年、32年
大正9年
昭和4年、22年3月、27年、37年、51年3月
平成6年 修理(1,650万円)
7年 舞台操作伝承委員会発足
8年 試し公演
9,10,11,12年 公演
13年 国民文化祭
この後は規模はまちまちですが、毎年公演
今年の本番は11月14日日曜日!
beeさんの上三原田歌舞伎舞台 サイト